虐待と発達障害ー親も疲れてる?!

虐待ー家族編

父はこんな人

茨城の寒村で貧しい農家の8人兄弟の末っ子として生まれました。昭和8年生まれですからばりばりの軍国少年です。長子制度が当たり前に息づいていた時代は、父としてはつらい少年時代だったのでしょう。何度も聞かされた話の中には、食事ごとに兄たちと、おかずの熾烈な奪い合いをしていたエピソードがあります。

長子は何をおいても優遇されていた事を含めて、貧乏生活がその後の父の人生に多少なりとも、影を落としていたことがうかがえます。一方で他の兄弟たちは口をそろえて”学校の成績が良かった”と言っていました。これも頑固で怖いおじいちゃんと、偏屈?なおばあちゃんの反対で夢かなわず、コンプレックスとなって末松少年の胸の奥にしまいこまれます。

母はこんな人

母は秋田の海辺にある漁村の出身ですが、家は豪農でしたから、戦争中でも食べる事には困らなかったそうです。文字どおりの蝶よ花よと育てられた世間知らずのお嬢さんでした。成績はともかく運動が得意で、明るく活発な少女として育ちました。若かりし頃の母の写真には、あふれるような笑顔をうかべた姿が写っています。母の笑顔を見た事がありませんから、不思議でした。

駆け落ち、そして・・・

父と母は工場で知り合います。若い時分の父の写真を見る限り、父は虫も殺さぬような優しげで二枚目な男性でした。その後2人は親の反対を押し切って駆け落ちし、東京に新居を構えてまもなく、わたしを身ごもりました。はたしてどうやって父は母を口説いたのかは知りません。

まもなく父の偏った性格に気づいて、母は別れをひそかに考えたものの、昭和30年代は女性1人が子供を抱えて生きるには、大変な時代だったのでしょう。父への不信感を胸にすべておさめたまま、母は夫婦生活を続けました。

この頃の事を父は”自分はおとなしくて自分の意見をはっきり人前で言えない人間だった、だからよくいじめられた”と話しています。家では内弁慶です。言葉に詰まるとすぐ暴力に訴える、感情のコントロールが下手、ついでにネガティブで少々うつ傾向がみられるなどの面もありました。

おおよそ多くの人が考えもしないものに、異様な執着を見せたりこだわったりした事もあり、母曰く”何年一緒に過ごしてもどういう人なのか、理解しにくい人”だったのです。優しい面もある一方で冷酷極まりない一面もありました。プライドが高く打算的かつ自己中心的でマイペースです。女性は黙って男性に仕えるお人形と思っていたふしもうかがえます。

わたしが見てきた父と母の姿

”おなかに子供(わたし)ができたので別れられなかった。わたしが不幸になったのはおまえのせいだ”と、母から言われ何も言い返せなかったのが、わたしの中学高校時代です。それは決まって夕食時でした。本来なら家族にとって楽しい団らんとなるはずの時間帯は、かくして地獄の時間と化していました。父と母が仲良くしていた時も、おそらくあったはずですが、ほとんど記憶にないのです。

幼稚園の頃は母が水商売で生計を立てていましたし、少しだけ裕福になっていたころ、母は父の事業を手伝っていました。母は持ち前の明るさと人の良さで、職人さんたちの人気者でした。そこへたどり着くまでには、父を叱咤激励した母の並々ならぬ努力とがんばりがあったのです。

当初母がキャバレーで酔っ払い相手に働いていた期間、父は釣りをしたりパチンコや競輪をしたりなど、気ままに過ごしていました。いわゆるヒモです。父はじっとしていられない性分だったのか、夜になるとふらっとどこかへいってしまいました。このあたりの事情は幼いわたしが知る由もないのですが、母は何度か父に働いてほしいと進言していたのでしょう。話がこじれてつかみ合いの喧嘩になる事もしばしばおこりました。

育児と家事さらに深夜業務、おまけに父とわたしの”2人の子供”を抱えるなど、母はオーバーワークの日々を過ごしていたことになります。子供の頃のどの写真を見ても、暗く疲れ切った表情をしていた裏には、父のどうしようもない特性もからんでいたのです。

じたばた大騒ぎの旅の朝

じっとしていられない性分はADHDならあるあるです。少しでもお金がたまると北は北海道から南は沖縄まで、いたるところを旅行しました。大雪がひどかった小谷村も訪問地の1つです。それだけならいう事はありません。出発の朝になってから”あれがない!探せ!”と母を追い立て、1時間以上大騒ぎした末ようやく出発というのが、毎回繰り返される朝の光景です。

自己本位、周囲の都合などお構いなし、まさにADHDのなせるわざです。父の行動は多数の人には不可解でした。今の時代なら明らかに症名がつきそうですが、当時は発達障害の”は”の字もなく、うつ病はなまけ病と称されていた時代です。叱咤激励した母の言動は当事者が、もっともしてほしくない対応だったかもしれません。もちろんDVへの理解と支援も確立していませんでしたから、どちらにとっても八方ふさがりの状況だったでしょう。

発達特性から見た父と母の姿

父に浮気が発覚してから、離婚話が持ちあがった際に父が母に見せた態度は、一般常識から大きくかけ離れたものでした。愛人と一日も早く暮らしたい、その一点しかない父は、”出ていけ”の一点張りで、”何処へ行けばいいんだよ”と泣きじゃくる母を前に高笑いしていました。父を立ち直らせたのは、母のがんばりです。働かない父に代わって水商売で一家を支えたのも母でした。その結末が”出ていけ”では、あまりに殺生な話でしょう。

当時者目線で考えると、事故のショックに打ちのめされていた父には、回復まで暖かいまなざしが必要だったのでしょう。言葉を選んでゆっくり話す工夫も必要でした。疲れ切った母が何度か家出した事があります。そのうちの1つは若い男性との逃避行です。父は母に土下座して謝らされたようですが、この時の出来事は父のプライドを深く傷つけていました。”納得できないままわけもなく謝らされた”というのが、父の理解だったのです。

根に持ちやすいADHDらしく数十年後に、”高笑い”という形で父は復讐を果たしました。その父の特性をそっくり受け継いだのがわたしになります。

当事者と家族に言える事

今はいい時代です。うつやDVへの理解と支援対策もここ50年ほどの間で、かなり進みました。発達障害や引きこもりに関しては、まだまだ社会の無理解と無知から悲しい事件も多く起きています。すべて家族に責任を負わせるのは問題ですが、ささやかな工夫で未然に防げる事故や事件もあるはずです。もしも家族に発達障害かもしれない人間がいるなら、ぜひ医療相談を受けてみてください。

もよりの保健師ないし福祉課を訪ねれば、専門家を紹介してくれます。そして家族会や当事者会に参加してみてください。けして孤独にならない事が大事です。そのためにも障害を隠さずに、地域で支えていく街作りも必要でしょう。

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